代表取締役社長 宮本洋一
「社員ひとりひとりがかけがえのない財産」という宮本社長。200 年の歴史が築き上げた伝統と信頼を今後も継承しながら、変化の激しい環境に対応する清水建設を担う宮本社長に、幼少時から学生時代、入社当時の思い出、そして現在の清水建設の姿と将来像について語ってもらった。
生まれてから沼津で育ち、四歳で杉並に引っ越しました。近所の田んぼの用水へいき、スルメを細かく裂いて、それをエサにザリガニを釣って遊んだことをよく覚えています。
このころは泣き虫で、何かあると泣くことが多かったようです。小学校に上がってからは、鉄棒と水泳が苦手で、特に水に顔がつけられなかったので泳ぎがダメ、体育の成績はよくありませんでした。
それが変わったのが小学校五年生の時。岐阜に転校したことがきっかけです。東京では泣き虫でも周囲は何となく許してくれていましたが、岐阜ではメソメソ泣いていると、誰も遊んでくれない。強くなるしかないのです。
ではどうして強くなっていったかというと、それはひとえに担任の先生のおかげです。先生は軍隊出身だったのですが、あらゆる物事を軍隊並みのスパルタ方式で厳しく指導されました。
授業中、少し横を向いていただけでチョークや往復ビンタが飛んでいました。バケツを持って廊下に立たされた人もいました。私は水泳で、首根っこをつかまれて無理矢理顔を水につけられ、溺れそうになりながら、死に物狂いで頑張った結果、なんとか100メートル泳げるようになりました。
この先生の下で、体力とともに精神も鍛錬され、放課後も、川にいって、大人の親指ほどもある大きなおたまじゃくしをすくったり、柿の実をもいだり、いちじくを採ったりと、自然の中でのびのびと育つことができました。
体育の成績は、通知表ではずっと二か三でしたが、六年生の三学期、最後に五をもらいました。他の生徒に比べれば運動神経も決してよくなく、相対評価だったらせいぜい三程度の能力だったと思いますが、先生は、私の「伸び率」を評価してくれたのでしょう。この時のうれしい気持ちを、私はずっと忘れていません。「結果にいたるまでの努力の過程をきちんと見て評価する」、これは、今、経営者として、人を育てる際に大事にしている考えのひとつです。