人事部での新入社員教育係を担当した後、労働組合の執行委員を専従でやっていた期間がありました。さらにスポーツ用品の仕入課長を務めた後は、約十年間委員長をやりました。
労働組合のあり方は、三十年くらい前から変化しています。組合が経営上の問題点を指摘して変えることが必要であり、それが自分たちの待遇にも影響するという考え方になってきたのです。しかし私が入社したころは、髙島屋の中でも「階級闘争」という言葉が聞かれ、左翼系の人もいました。それは別に珍しいことではなく、どこの企業でもそうだったのです。
組合に入ったきっかけは、家具売場のある先輩に「やってくれ」と誘われたからです。
最近、「労働組合に入れば出世コースに乗れる」といっている人もいるようですが、そんなことはありません。何かと大変でした。当時は、組合専従になれば職場に行って組合活動の説明をしなければなりませんでした。組合活動に批判的な人がいる職場もありましたし、ぼろくそにいわれたこともあります。
労使の交渉を髙島屋は大阪でやっていたのですが、私は最初、東京の留守番役でした。交渉が終わると、次の日にはこちらでもその結果を記したビラを出さなければなりません。でも昭和四十年代の話ですから、パソコンもなければファックスもない。だから大阪にいる人が全部原稿を作ると、それを「何月何日何時に交渉が始まって……」という具合に電話で読み上げるのです。私たちはそれを聞きながらメモすると、今度はガリ版に書き直してビラを刷っていくわけです。
作業が全部終わるのは明け方の三時か四時。仕方なく宿舎に泊まり、今度は六時に起きてそれを配る。春闘の期間中はずっとそうでした。
また、組合員をレクリエーションに連れていくこともありました。組合員はみんな若かったですし、今と違って定休日がありましたから、泊りがけでキャンプやスキーにいくことができたのです。私たちがバスを手配して、みんなで出かける。それは楽しい仕事でした。
各百貨店の組合同士は、頻繁に交流します。その頃は伊勢丹以下の商業労連という産別組織がありましたが、三越と大丸と阪急、髙島屋はそこに入っていなかったのです。しかし春闘の時などはみんな連携しますから、そういう同業労組との頻繁な連携はありました。ですから他社の人もよく知っていますし、情報交換もしました。また産別組織とも緊密な連携を取っていました。
私は髙島屋労組を商業労連に加盟させた後、委員長を下りました。それが今から十五年くらい前だと思います。
これがひとつのきっかけになって、三越など産別組織に加盟していなかった他の百貨店も全部ひとつの産別組織に編成されたのでした。